2012年4月6日金曜日

人生は短し 芸術は長い

僕は、肖像写真家館で今日明日のご飯をいただいている写真家です。

この仕事は、人の人生を記録する「まなざし」だと思う。
偉そうに聞こえるけど、奢るつもりは毛頭無く、重大な仕事に責任持って臨んでいるのだ、
という意識付けを込めて、そう思うようにしている。

記念写真は、人が生まれてから、成長していく節目節目で、必ず撮られていくものだ。
最初は1枚からはじまって、人の歩みと同じ歩数で増えていく。
最初は本人に向けられた眼差しも、彼らが成長して、新しい家族を作って、
新しい命が産まれると、今度は新しい彼らを記録していく。
そして、最初に向けられた眼差しは、人生が円熟した時に、大団円を体現した彼らの肖像1枚によって総括される。その1枚は、彼らの血を分けた新しい人々によって継がれていく。

今やオンラインで一度に多数の人々と情報を共有できて、
物理的な質量すら必要としない「画像」ではあるけれど、
それでも、世界唯一の人を撮り、一枚の紙と、一握の金属銀によって焼き起される写真には、
美術館に収蔵されている絵画以上の価値がある。
掌サイズの液晶画面に画像を映して、それで満足って時代ではあるけれど、
この写真は、これからも在り続けるように願う。

その人の人生を超えて記録されるという素晴らしい技、
その技術に携わっているという責任を常に持って働いていきたい。

意識は高く、しかし現実は厳しい。
ひとつに、消費縮小の市況がある。
また一般的にデジカメ普及で個人で写真を撮るようになった。
さらに流通大手然とした写真店が増加し、彼らの体力依存の価格破壊によって、
昔ながらの写真館の価格設定での太刀打ちが効かなくなってきたことに起因する。
それでも、技巧の逸品を提供するは諦めずに、
個人の小さな店だからできるサービスを続けようと思っています。


ブログタイトルは、古代ギリシャの巨人、ヒポクラテスの言葉より拝借。
当人はお医者さんで、
"Ars longa, vita brevis, occasio praeceps, experimentum periculosum, judicium difficile."
    術は長し、生涯は短し、時機は速し、経験は危うし、判断は難し
が全文となる。
僕はラテン語は全く専門外だけど、
"Ars."は本来、「技術」を意味する言葉だったが、
英語"Art."に誤訳されてしまうケースが多いらしい。
日本ではアートというと、時には難解な造形物であったり、
権威付けされた絵画の事を呼ぶけれど、
本来は高い技術、素晴らしい技術を指す言葉というので、
意識付けにもこの誤訳?
の一文を看板にいただくことにした。




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